試験問題に救われる〜センター試験の国語の問題を読むバー報告 

13日の夜のバーはセンター試験の国語の問題を読みながら・・・と思っていたけれど、問題速報がウェブにアップされたのは21時過ぎ。小説の問題として出題された井上荒野の「キュウリいろいろ」の抜粋を読むだけで終わってしまった。それまでの時間は隣町珈琲店主平川さんの文章から過去の大学や高校の受験に使われたテキストをいくつかテーブルに置き、自由に読んでいただいて時をすごした。

本として読むのと受験問題として読むのでは、文章に向かう緊張感も違い、なんだか妙な感じ。普段本を読むときのように全てを追体験すべく、テキストを映像化して読んでいこうとするとタイムオーバーになりそうで、つい斜め読みとなる。けれど、斜め読みでは意味がとれず、二度見してしまってかえって時間のロスになったりもする。やはり平常心を保つことが一番だ。感情移入もしすぎず、斜め読みでもなく冷静に素早く読む技術。意外に難しい。

私はどっちかというと感情移入してしまうほうで、ある一文が琴線に引っかかったりすると、心が揺れて試験どころではなくなる。本が読めていなかった高校生の頃にはそんなことはなかったのかもしれないが、その頃に比べれば多少本が読めるようになった今、受験したら大変なことになりそうだ。読解力は増しているのに、試験には逆効果。変な話だ。

この日私が読んだのは桐朋高校の入試に使われた平川さんの「言葉が鍛えられる場所」からの出題と当日のセンター試験の国語で出題された小説「キュウリいろいろ」からの出題。この2つのテキスト、タイトルだけ見れば、なんの関係性もなさそうであるが、そこに置いてあったたくさんの出題文の中から私がその2つを選んだのは必然であったかのごとくにケミストリーを起こし、私の琴線を揺るがしまくり、貴重な読書体験となったのでありました。

まずは平川さんの「言葉が鍛えられる場所」からの出題文。
発せられた言葉は必ずしもその人の本意を表すものではなく、その内容より「ヴォイス」を聞くこと、つまり意味としての言葉ではない何かに聞き耳を立て、掬い上げることで思いは通じていくという言葉のもどかしい本質について書かれている。
以下にいくつか文章を抜いてみる。

『自分の発している言葉というものが、本当に自分が相手に伝えたいことなのか、それともただ、自分の中から湧出してくる感情の吐露でしかないのか。相手の応答の言葉は真意を運んでいるのか、それとも相手は何かを隠すために言葉を用いているのか。』

『実際のコミュニケーションの場においては、いつも何か大きなガラス板のようなものが間に立ちふさがっていて、自分の言葉が相手に届かないという思いは消えることはありませんでした。他者との間に挟まっているガラス板はまるで偏光ガラスのように、私の言葉を捻じ曲げて相手に伝え、相手の言葉もまたその意味を歪ませてわたしの心に届けられてくるという思いが去らなかったのです。』

『(略)言葉の内容よりも、ヴォイスを聴くようになったのです。言葉には、それが指し示す意味とはいつも少しずれたところに本当に伝えたい事柄が隠れているものです。場合によっては、言葉はまったく反対の意味をもって発せられます。愛し合う男女の間で「あんたなんか大嫌い」という言葉には「あんたが好きで好きでたまらない」という意味が含意されています。』

私も毎日のように上記のような思いが頭をよぎる。言葉は本当にままならない。

ふと、かつて岡崎京子が「リバーズエッジ」の登場人物に語らせたセリフを思い出した。

本当にそうだ。あたし達は何かをかくすためにお喋りをしてた。ずっと、何かを言わないですますために、えんえんと放課後お喋りをしていたのだ」

彼女の漫画の中でもっとも響いた、今でも覚えている唯一のセリフ。
2月16日には映画「リバーズエッジ」が公開される。その中で、このセリフはどう語られるのだろう(ちなみに主題歌はオザケンらしい)。

口から出た言葉は真意を伝えるわけではない。時には自分の心を隠すための煙幕であり、自分の心を外敵から守る鎧である。ある意味、言葉こそが誤解を生み、何かを歪める。そんな言葉に対するもどかしさは80年代に女子高生だった私たちも、現在67歳の平川さん世代も変わらない。

平川さんの「言葉が鍛えられる場所」を読んだ後、やっと速報されたセンター試験の国語の小説の問題文は、そういうもどかしい言葉の裏側にある、時に自分でさえも気づいていない思いについて書かれたものだった。

井上荒野の「キュウリいろいろ」。ちなみに、井上荒野さんは56歳。私と平川さんの間の世代だ。

これは35年前に息子に先立たれ、今年、夫を見送った女性の新盆の話だ。キュウリはお盆にご先祖様があの世とこの世を行き来するための馬にみたてるキュウリである。彼女は今年、夫と息子二人分のキュウリの馬を作ってお盆を迎えた。息子を亡くして以来、夫とはぎくしゃくする関係が続いていた。交わす言葉には棘が混ざった。しかし、いなくなってやはりそこには愛情があったことを再確認する。

抜粋された問題文の最後は、彼女が夫の旧友に誘われ彼の母校(高校)のグラウンドを訪れたシーンだった。彼女は自分と出会う以前の高校生だった頃の夫の姿の幻をそこに見る。高校時代の夫には会ったことはないけれど、彼が生前、高校の思い出を語るたびに頭の中に思い描いていた男子校の風景。そこにあったのは彼女がずっと会ってみたいと思っていた高校生の夫の姿だった・・・。

『(問題文より抜粋)そして頭の中に思い描いていた男子校の風景が、今、自分の心の中から取り出されて、眼前にあらわれたのだという気がした。それが、ずっと長い間ーー夫を憎んだり責めたりしている間もーー自分の中に保存されていたということに郁子(妻)は呆然とした。呆然としながら、詰襟の学生服を着た十六歳俊介(夫)が、ハードルを飛ぶ女子学生たちを横目に見ながら校庭を横切っていく幻を眺めた。』

愛する人(夫婦や恋人だけでなく、親や祖父母なども)が死んだ時、なぜか、自分と出会う以前のその人の姿に思いを馳せることはないだろうか。私にはあった。自分の知らないその人を知りたい。それが愛することの原点だからなのかもしれないし、自分たちは出会う以前からどこかで繋がっていたと信じたいからかもしれない。逆に自分と出会う前の姿に思いを馳せてしまうということはその人を愛しているという証明なのかもしれない。

それはまだ生きている相手の場合もあてはまる。自分の眼の前にいる人の佇まいや語り口から、自分がその人たちと出会う以前の彼らの物語がふわりと浮かび上がってくることがある。それは手前勝手な妄想かもしれないが、人が過去に抱いた思いというのはそのくらい強固にその人やその人のいた場所にまとわりついているような気がする。言葉はその場で消えても、その言葉とともに発せられた「ヴォイス」が濃厚な空気となってずっとそこに染み付いている。

ある人の思いが時空を超えて、誰かのもとへ届く。たまたま誰かが拾うこともある。
お正月にテレビでやっていた大ヒット映画「君の名は。」の描きたかったテーマは本当はその辺にあるのではないかと思うのだが、実は、生前すれ違っていた夫をただ思い出しているだけの「キュウリいろいろ」のほうが、そのテーマをより的確に表現しているのではないか…そんなことを思った。何言ってんだ、ちげーよ!なのかもしれないけど。
(ところで、どうでもいけど「キュウリいろいろ」ってやっぱり「人生いろいろ」をもじったんだろうか?)

がん再発がわかってから3年半。崖っぷち生活も長くなり、そろそろ新しい自分に生まれ変わりたいと思う私は、ここにきて、これまでの人生における後悔のようなものをほじくり出そうとしている。この日もそんな後悔をほじくり出していたら、ちょっと辛いことにぶつかってしまって落ち込んでいた。そんな落ち込んだ心で読んだのが、この2つの受験テキストだ。ちょっと救われた。ちょっと自分の正直な気持ちが見えた気がした。そして、帰りの電車の中で、前よりちょっとだけ正直な気持ちを言葉に表せるかもと思った。その言葉が纏った「ヴォイス」の残り香は今後どんなケミストリーを起こしてくれるのだろうか。

わたしたちはなんのためにおしゃべりするのだろう。
なんのために言葉を発するのだろう。

あいにくバーのお客さんはこの日、平川さんも含めたった4人で、センター試験問題の速報が遅かったこともあり、みんなで問題テキストを読んで語り合うという当初の目的は達せられなかったが、私もテキストを読む余裕があり、ちょっと救われたし、自分のためにはやってよかった。常連の男性も平川さんの文章を受験問題として読めたのは面白かったと言ってくださっていた。

受験問題に抜粋されるテキストの分量はお酒を飲みながらでも読めちゃう分量だし、平川さんの文章が使われた受験問題はしばらくの間はまだお店に置いておくので、バーにいらして読んでみてください。平川さんの本を読んだことのない人にはいいイントロダクションになるかもしれません。

1月のバーは16、17、20、25、27、30、31日の予定です。
急遽休みになる日もあるかもしれませんので、facebookやツイッターのチェックよろしくお願いします!


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